DIARYイクラの日報 / イクラのブログ

2021年8月18日の政変

一昨日にU社長に

「日報書いてないやん」

と言われました。

NO-NO-NO。

これは日報ではありません。備忘録です。

今回は評価制度のことについて書きます。

今のイクラのメンバーはほぼフルコミットで入っている方が13名、強く関わっている方も含めると20名ぐらいです。

チーム(部門)でいうと、

・セールス
・マーケティング
・エンジニア
・CS(カスタマーサクセス)
・コーポレート

に分かれます。

上記の5部門がお互いに協力しなければ「イクラ不動産」というプラットフォームを作ることができず、「三位一体」ならぬ「五位一体(ごみいったい)」を掲げて、様々な取り組みをしています。

例えば、オフィスは全員同じ空間におり、Slackだけではなく、お互いにどんな仕事をしているのか、忙しそうなのかが直接見え、直接他部門に話したりできるようにしています。

さらに人数が増えたときには難しくなるとも思いますが、今は各チームの組成期間であり、一番重要な時期なため、あえてそうしています。人数が増えたときに「足し算」ではなく「掛け算」になるためにどうすべきか考えています。

上記の部門の中で、正直「チーム」として完全に立ち上がったのはまだセールスだけです。

セールスの賞与は成果報酬なので、個人戦になりやすく、それだけに、もうほとんど電話していないのに「この不動産会社リストは私がまだあたっている」と囲い込んだりや「メンバーの不動産会社の加盟が素直に喜べない」とピリピリした雰囲気になるなど負の問題が起こることを予測して、「ボーナスも個人ではなくチーム制にする」とCOOが3月に断行し、すでに半年ぐらい経ちましたがチームの雰囲気が良く非常に上手くいっているなと感じます。

いつもメンバーに「外に敵がいっぱいいるのに、身内で落とし合うことはやめてくれ」と言っています。言っているというか、問題が起きるのは制度設計の問題なので、そうして良かったと思う次第です。

前置きが長くなりましたが、本題について書きます。

セールスは成果が数字として出てくるため、それを評価して賞与として分配しやすいのですが、残りの

・マーケティング
・エンジニア
・CS(カスタマーサクセス)
・コーポレート

をどうすべきかという問題が出てきました。

どうすべきかというか、今まで僕の一存で「えいっ」と賞与が決まることに、おかしいなと。

やった成果に対して正しく評価されないような会社じゃ、優秀なメンバーほど離れると思うので、フェアにするために、マーケティングやエンジニアなどは、どのような成果を評価(給料・賞与)に紐付ければ良いのか頭を抱えました。

そこでメンターのN社長に相談しました。N社長は同じようにプラットフォームを運営しているIT会社の社長です。

その会社は客観的に見ても「フェア」であることを重要視しており良いなと思うので、イクラもかなり参考にしています。

「マーケティングはこんな感じ、エンジニアはこんな感じで賞与が決まっているよ」という話を求めて相談したのですが、答えは全く意外のものでした。

結論でいうと、

『制度設計よりもまずは制度運用の方が大事』

と言われました。

なに?どういうこと?

『類似の東証マザーズから給与などを比較して決定(公開されている)できるけど、そもそも人数が少なすぎるし、このフェーズやとむしろ、厳密な制度を設計するよりも運用するほうが圧倒的に大事やな』と。

『なぜかというと、本当に給与だけ求めているならイクラなんかに来なくて、斜め前にあるキーエンスに行くわ。なので、優秀な人がイクラにきているのにはなにか理由があって、その人がそれをイクラにいても達成できないのであれば辞めるので、1on1MTをもっと増やして細かく実現できているのかを聞いた方が良いで』と。

『あと、だいたい不満になるのは、厳密な制度設計してもそれを運用する人が足りないため運用できず、結局会社は何もしていないと不満が高まるので、それよりもだいたいでも良いから運用するほうが良いで』と。

なるほどなるほど。

そこでいただいたアドバイスを元に以下を決定しました。

①人財委員会の発足

メンバー50人までは人財委員会にて基本給・賞与・役職を決定します。人事が足りないことと、あと、坂根の一存で給与や賞与が決まることはないという姿勢が大事と考えたため。

人財委員会のメンバーはCEO/COO/CTO/Co-founder。

②賞与制度を残す

正直、僕としては年俸制に移行しようと考えていました。賞与は給与の後払いでしかないため、フェアじゃないと思っていたからです。ただ、ここもアドバイスがあり、

『実際のところ、賞与の時期になると他の会社が出ているので、もらっていてもやっぱり不満が出てくるで』と。

なるほど。日本の商慣習に合わせて一旦残しつつ、例えばエンジニアなど年俸制が主流になりつつある職種から移行してみることにしました。

③ミッションを決定する

では、何をすれば給与や賞与があがるのか?

そこは、会社のミッション ・チームのミッション ・グループのミッション ・個人のミッションを決めて、その達成度合い1on1で進捗確認し、その達成度合いを見て、人財委員会で決定することにしました。

そのためにも最低四半期に1回、1on1MTは実行しミッションを擦り合わせることとしました。

いろいろ考えましたが、従業員のためでなく、基本姿勢は

・全てのステークホルダーに対してフェアである。

ことを重視したいと思います。組織(従業員)を最優先にする、ということはお客様である売主や不動産会社を待たせることになるからです。

ステークホルダーとは、売主 ・不動産会社 ・取引先(仕入先)、パートナー(代理店) ・従業員 ・株主 ・銀行など関わる存在のことです。

そして、実際8月21日に臨時人財会議を開催し、2名の昇格人事を発表しました。

この人数の段階で考え意思決定したことを備忘録として残しておきます。

 

 

 

※タイトルについて

タイトルの「2021年8月18日の政変」は理由がなく、N社長に相談した日が8月18日だっただけです。

ちなみに、ガチの八月十八日の政変は今から158年前の1863年、幕末に起きたクーデターのことを言います。

完全に幕府(将軍)の力が弱ってしまってて、天子であった「孝明天皇」の影響力が強くなっていたんですね。

1840年に起きたアヘン戦争で、あの清がイギリスにボコられたことを知っていた幕府は「やべぇよ、やべぇよ」って思っている間に、1853年にアメリカのペリー提督がきて「キタァァァァァァ!!!!どうするんだよ!!!!」になり、当時の総理大臣だった老中阿部正弘が「…ちなみに天子様はどう思いますか?」と聞いて孝明天皇が「俺はやだ。絶対に反対ね。」と言われたことに起因します。

でも、幕府は孝明天皇と違って、ボコられて香港も取られた清がどんな悲惨な目に合ったか知っていたので、1854年に日米和親条約を結び開国します。ただ、この条約はあくまでも開国しただけで、貿易したかったアメリカのハリスは通商条約を結ぶよう幕府に迫ります。

ハリス「はよしてよ!あの強大な清やインドが今イギリスにボコボコにされていますよ!(アロー戦争(1856年)、セポイの反乱(1857年))ねぇ、やられたいの?」

幕府「やべぇよ。やべぇよ。」

しかし、この時期、強烈な(東海地震や南海地震など8つぐらい一気に地震が起きた)安政の大地震が起きます。

孝明天皇「なにぃ!!!和親条約はアメリカに薪や水を神国日本が与えるという意味で許したのに、貿易なんて絶対許さん!これ以上神を怒らすな!」

となり、

それを聞いた他の藩が、「征夷大将軍って天子様から授けられた職だよな。それを守らないって幕府が悪くね?」とザワザワとなりますが、臨時の最高職、大老に就任した井伊直弼が「うるせぇぇ!!!!!」と独断で、1858年日米修好通商条約を結びます。そして、「はい、死刑」「はい、死刑」と反対派を安政の大獄にて粛清していきます。

でも、その井伊直弼が1860年桜田門外の変で暗殺されて、完全に幕府の力は地に落ち、尊王攘夷派の人たちが「俺たちの時代だ!」と力を持ち始めます。

尊王攘夷とは漢字の通り、天皇を第一とし、夷狄(外国)を追い攘(はら)うという派です。

老中安藤信正「そうだ。天皇と将軍が親戚になればいいんだ!」

これがいわゆる孝明天皇の妹和宮が14代将軍徳川家茂の奥さんになった1862年の皇女和宮降嫁というものです。このような天皇(公)と将軍(武)が一緒になって国政を動かしていく派閥を公武合体派と言います。ちなみに老中安藤信正はこの年に尊王攘夷派に襲われ負傷、失脚します。これが坂下門外の変です。

いよいよ、これは幕府の老中じゃもうダメだな、ということで、力を持った藩=雄藩が天皇と将軍の間を持って、協力するような流れが出てきます。もちろん、自分の藩の政治的発言力を高めるためです。

この代表が薩摩藩の島津久光です。島津久光は1862年、兵を率いて京に上洛し、雄藩を中心として政治体制に変更するという政治改革を行います。いわゆる文久の改革です。

島津久光「俺の言うことをきけやぁ!!!」と。

朝廷を説得し、天皇の命令だとして江戸へ行き、一橋慶喜を将軍後見職、越前藩の松平慶永を政事総裁職、会津藩の松平容保を京都守護職、あとは土佐藩の山内容堂や宇和島藩の伊達宗城と雄藩による政治体制を作ることを宣言したわけです。

まさに1863年、江戸から薩摩への帰り道、横浜の生麦村で、島津久光を馬で横切った外国人を殺傷した生麦事件が起きたのはここです。

ただ、朝廷の公家の中には、幕府ではなく、外国人嫌いで攘夷派だった「孝明天皇」を担いで幕府勢力を排除し、主導権を握ろうとしていた勢力がいました。それをバックアップしていたのが長州藩であり、この雄藩での政治体制に邪魔な尊王攘夷派勢力を一掃したクーデターのことを「八月十八日の政変」と言います。

これを挽回するために、翌1864年長州藩が京で薩摩藩・会津藩と戦争したのが禁門の変(蛤御門の変)で、負けた長州をボコるために幕府及び全国の藩による長州藩との戦争、第一次長州征伐が行われますが、その征長軍参謀だったのが西郷隆盛で、阪本龍馬が出てくるわけです。

「ん?外国人が迫っているのに、こんな内戦をしとる場合ではないぜよ」「そうでごわす」と。

幕府じゃなんにも変わんないぜよ、新たな日本を…と1866年の薩長同盟、1867年の大政奉還、王政復古の大号令と明治維新になるわけです。

ちなみに八月十八日の政変で力を落とした三条実美と岩倉具視が明治維新の中心となるのです。

今が調子悪くても諦めるなっていう話!…をしたかったんだっけ?俺は。

 

 

…ていうか、なんだこれ。ただの歴史のガチブログやないか。